観相の祖、水野南北のお話。現代日本の手相占いは西洋手相術と東洋占星術の融合
古代インドを起源として3000年前から5000年前に始まった手相占いは、インドから東と西に分かれるように世界に広がっていきました。
中国から日本へと伝わった手相占いは「東洋手相術」と呼ばれ、中東からギリシャ、ローマを経てヨーロッパへと伝わり発展した手相占いを「西洋手相術」と呼びます。
東洋手相術と西洋手相術の起源は共にインドですが、それぞれが異なる文化を持った地域を伝わって行って発展していったことから、この2つの手相術は異なったものになりました。
中国の易占と手相術
インドから中国へと手相術が伝わったのがいつのことかははっきりしませんが、紀元前11世紀から紀元前3世紀頃の周王朝の時代には、易学の占いとともに手相が見られていたことが知られています。
易学の占い=易占といえば、易者さんが筮竹(ぜいちく)を使って占うあれですが、その起源である古代中国の時代から易占と手相占いは一緒に行われていたということですね。
中国の手相術は人相術(観相)と一体と言われ、観相は顔や手ばかりでなく全体の体型や足などの形、バランスを見て占うもので、顔相や手相はその一部と考えられています。
また、手のひらの丘の色つややふくらみの具合などを重視するのも大きな特徴といえます。
中国から日本へと伝わった手相術
中国の手相術は、平安時代に日本へと伝わったとされています。
仏教や易学とともに日本にもたらされ、陰陽師が貴族のために占っていたと言われています。
また、密教を中国から持ち帰った空海を開祖とする真言宗でも手相術が行われていたそうで、一部の真言宗では中国式の手相術が現代にも伝わっているということです。
日本で本格的に手相占いが行われ始めたのは江戸時代の半ばのことで、日本の観相の祖と呼ばれる水野南北という大阪の人が庶民に手相術を広げていきました。
ちなみに、この水野南北は子どもの頃から酒と喧嘩と博打に明け暮れたワルで、18才の頃に入れられた牢屋のなかで人相と人の運命の関係に気づき、観相の研究を始めやがて大家となったのだそうです。
現在の日本の手相占いは西洋式!?
江戸時代には易者や手相見が手相占いを商売にするなど、手相術の大衆化が起こりましたが、明治時代になると西洋手相術が入ってきて、やがて日本の手相占いは西洋手相術が主流となっていきました。
現代の日本の手相占いは、明治以降に研究が本格化した結果、西洋手相術に東洋手相術がとけ込んで融合したものだということです。