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仮説・ロアノーク島の集団失踪事件の根底に流れるもの

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17世紀イングランドの探検家にして著作家、そして「植民請負人」の異名をも持つジョン・スミスという人物は、1590年に北アメリカで起こった「ロアノーク島集団失踪事件」についての調査を本格的に再開しました。

これは当時100人余りの入植者が忽然と姿を消したという事件で、発生時にはスペインとの紛争を抱えていたために調査が中断されていたものです。

アプローチ対象としてはロアノーク島に限定するものではなく、周辺地域を含めて「(当時の)イングランド人のような生活様式、服装、習慣、言語を持って暮らしている人はいないか」ということを、現地に暮らす住民にヒアリングをしてまわるという形でした。

このアプローチが、後のロアノーク伝説の信ぴょう性に濃淡を与えることになりました。

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イングランド最初の北アメリカ植民地

ジョン・スミスの「植民請負人」という異名は、17世紀初頭にイングランドとして初めて北アメリカに植民地を開発したことから来ています。

1607年、ロアノーク島にほど近い、現在のアメリカのヴァージニア州界隈のジェームスタウンという場所を拠点として、当時でいうところの「新世界(イングランドから見た未開の地)」初の開拓(しかし先住民のインディアンからすると「侵略」と捉えられるものでもあります)、そして植民化を成功させました。

その道中で、数十年前に起こった「ロアノーク島集団失踪事件」についての聞き込みもおこなっています。

1585年にイングランドによる北アメリカ植民地化の先人となったウォルター・ローリーとの最大の違いは、なんといっても先住民であるインディアンと交流を持ったことではないでしょうか。

ジョン・スミスが交流を持った部族は「ポウハタン族」と呼ばれ、一説によると「短い期間ではあったが、先住民ポウハタン族の酋長の娘であるポカホンタスとも交流を持った」という記録が残っています。このエピソードは後に映画化もされています。

かくして欧州人が北アメリカに進出し、その後のアメリカ合衆国建国の足掛かりを作ったというわけです。

 

欧州人のポリシーがインディアン戦争を引き起こす

しかしジョン・スミスの場合も、アプローチこそ初回の植民地化の時とは異なっていたものの、彼が掲げた「植民地化の動機」は先人であるウォルター・ローリーと何ら変わらないものでした。

要約すれば、「誰でも勤勉にさえ働けば、大金持ちになれる場所」という考え方でした。

なぜこの考えが欧州人に受け入れられたかというと、イングランドの狭い領土と比較して、北アメリカの広大な土地に石油をはじめとしたさまざまな資源が眠っていることは、確率論的にも明らかだったからです。

根底にあるこのポリシーは、17世紀初頭の植民地化から数えておよそ400年後に、「インディアン戦争」という形で、先住民との紛争を引き起こしてしまいます。

ジョン・スミスの植民地化成功がロアノーク島の事件の真相と結びついている根本原因は、このあたりにあるのではないかと思われます。

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カテゴリ: その他

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